降れば土砂降り

読書、語学および常に失調している自律神経について

彼が叫びたがっているんだ

ずっと通院していた地元の小さなクリニックが、閉院した。先生が高齢になり、跡取りもいないからだそうな。
小ぎれいなところではなかったけれど、いかにも昔ながらの町医者という先生だった。仁のお人であった。
仮に、A先生としておく。

A先生のエピソードを挙げると枚挙にいとまがない。
汚い野良犬を連れたホームレスがいるなあ…と思ったらA先生だったとか。
図書館にタクシーで浮浪者が乗り付けてきたと思ったらA先生だった、とか。
ことほどさように、A先生の風貌や生活態度は、世間がイメージする「開業医」とはかけ離れている。

あるとき待合室にいると、院長室(とは名ばかりのほぼ物置部屋)からA先生と製薬会社の営業マンとの会話が聞こえてきた。
その営業氏は、いわゆる「おいしい話」をA先生にもちかけていた。
今の会社との契約を途中で切って、ウチに替えてくれたらこれ相応の見返りがありますよ、とかなんとか。
するとA先生はこう答えた。

「キミッッッ、君はこの僕に、そういう人倫にもとるような行為をしろというのかっ」
くだんの営業マンもさぞ驚いたと思う。
「もっとよこせ」なら言われ慣れているだろうが、人でなし呼ばわりされるとは。
だいたい「人倫にもとる」ほどの悪事ではない。

当然ながら、患者からの付け届けのたぐいも忌み嫌っている。
心付けの入った封筒を待合室で突き返され、挙げ句に怒鳴りあげられている人を見たことがある。 このあと出禁にされていた。

こんな清廉な人がよく今の時代に生きていられるなと思う。
まあ、正確にいえば「清廉」というよりとにかくルールに厳しいお方なのだ。違うな、ルールが好きと言ったほうがいい。

もちろん法律も遵守するが、彼の統べる王国であるところのクリニック内には、あまたのヒズ・オウン・ルールズがある。
そしてそのお触れは、A先生のたいそう汚い手書きで掲げられている。
それも、広告とか古カレンダーとかの裏紙に。

「金品、飲食物の差し入れは一切認めません。もし見つけたら、即刻治療拒否、退院とします」

「院内はすべて禁煙です。もし見つけたら、即刻退院とします」

即刻即刻。即刻。
かなりのせっかちと見た。脅し文句も好きなようだ。
かつて実際に喫煙の咎で退院させた人がいた病室には、それはもう10年も前のことなのに見せしめの張り紙があった。

「○○さんは喫煙が発覚したため退院となりました」

こんな具合に裏紙のお触れが壁じゅう、ところせましと貼ってあった。たぶん、A先生自身も把握しきれていなかったはず。

だがなんといっても傑作はこの一枚だったと思う。
「電気治療器を希望する人は、受付の奥に向かって〈電気!〉と叫んでください」

わたしは最初これを見たとき、腰が抜けるほど笑った。小さなクリニックである。
待合室のひそひそ話や、診察中のA先生の声がすべて筒抜けなくらいの。
だいいち、受付には常時、誰かがいる。「叫ぶ」理由はなんなのだ。
そういえば「大声を出すな」という張り紙もどこかにあった。

冬場のインフルエンザが流行る時期になると、玄関脇にこんなお知らせが掲示されていた。

「咳、鼻水、熱、関節の痛みetc,etc……:以上の諸症状のうち一つ以上ある方は、中に入る前に玄関のところで、受付に向かって〈風邪!〉と大声で叫んでください」

なお、叫んでいる患者さんを見たことは一度もない。ここで絶叫する人はA先生だけだった。

A先生、長くお世話になりました。ありがとうございました。